祖母が不自由な身体になったのは、数年前、玄関先で、つまずいた際、足首を痛めた事に直接の原因があったが、それより前に、軽い脳梗塞を起こしたことがある。
その後にも、同じ脳梗塞で、入院したことがあり、今度再発すると、危険度は高くなると言われていた。
その為、卓の両親が、部屋の温度や家全体の室温を一定に保ちながら、かなり努力をしていたのである。
しかし、この著しい気温の変化は、どんなに気配りをしても、90近い祖母の体力を奪っていった。
病名は心不全であるが、卓はこれが『天命』と言うものなのかと思う。
卓が病院に駆け付けた時、祖母の顔には白い布がかぶされていた。
卓はこらえきれずに、祖母にすがって泣いた。
「俺の結婚式まで・・・それまで、頑張ってくれると思ってたのに・・・ばあちゃん・・・」
呆然と立ちつくしていた母がポツリともらした。
「あたしの努力が足りなかったわ・・・」
「何言ってるんだ!母さんはよくやった!おばあちゃんも喜んでくれてる」
父親が優しく言った。
「そうだよ・・・母さんほど一生懸命、介護した人はいないよ・・・」
妹がハンカチで涙を拭いながら母親の背中をさすった。
倒れる数日前には、里奈が訪ねていた。
それが、家族にとって何よりの救いである。
その時ベッドに起き上がった祖母と、ふたり肩を抱き合いながら里奈と撮った写真がある。
「あたしの若い頃によく似てるわ」
祖母の声に皆が楽しげに笑った。
「おばあちゃん、相当な美人だったんだ」
妹が言うと「美人なんてもんじゃあないよ・・・小野小町か、楊貴妃か・・・立てば芍薬!座れば牡丹!歩く姿は百合の花!もうそりゃあ!街歩けば、若い男たちは皆振り向いたもんだ・・・」
その言葉で、皆が笑った、あの団らんはもう返らない。
いつも祖母は明るく振舞っていた。
その笑顔が卓の脳裏によみがえる。
幼いころ、帰りが遅いと何度も父に叱られ、いつだったか、遊びほうけて帰ったのが7時を過ぎた時があった。
「出てけ!」と家を閉め出された時も、近所を探し回ってくれたのは祖母である。
その時はご飯を食べさせてもらえなかったが、そっとおにぎりを持ってきてくれたのも祖母である。
「卓・・・お父さんやお母さんを心配させちゃあいけないよ・・・これから大人になってもそうだよ・・・一番の親孝行ってのはね・・・親に心配かけない事なんだよ」
そう教えてくれた。
あの時のおにぎりの美味さと、その言葉を、卓は生涯忘れないであろうと思った。