窓越しに見ていると、大きめのサングラスをかけ、真っ白なサブリナパンツと、エルメスのシャツに身を包んだ沢口夫人が、60過ぎの女性とは思えぬ軽やかな足取りで、道路を横断して来る姿が目に飛び込んで来た。
「ごめんね~」
「イエ、大丈夫です」
夫人は、カウンター越しに「アイスコーヒーお願い・・・お砂糖もミルクもいらない・・・」とウェイターに告げると、卓の前に座るや口火を切った。
「ほかでもないの・・・単刀直入に言います・・・卓ちゃん!あなた、私の手下になって!」
「!?・・・」
「手下って言うより・・・諜報活動をね・・・お願いしたいの・・・」
「諜報って・・・沢口社長の行動の・・・ですか!?」
「決まってるじゃない・・・ほかに誰がいます?」
「アッ・・・はい・・・」
「この間の事もあってね・・・あの人、卓ちゃんには、全面的な信頼を寄せてるの・・・また必ずあなたを指名して都内に行くわ・・・行先は別になっても・・・きっと・・・」
「じゃあ、この前の女性とは・・・」
「向こうから三行半(みくだりはん)突き付けてきたみたい・・・ザマアミロってなもんよ!」
「・・・」
「でもね!これからの事を考えると、どうしても、あなたの協力が必要なの・・・」
「・・・」
「あの人、私がいなければ、とっくにダメになってる・・・普通の女性だったら、調停だナンダで、貰うもの貰って、分かれてるわよ・・・」
「今更、この齢で別れる?・・・孫までいるのよ・・・」
「・・・」
「ねえ、卓ちゃん!お願い!この通り!」
夫人は手を合わせて見せた。
卓にも夫人の気持ちは、よく分かる。
また、どこかに愛人が出来て、子供でも生まれれば・・・
認知だ、相続だと忙しいことになることは百も承知である。
本妻ならではの気の回し・・・
しかし、卓には無理な相談である。
「奥様、申し訳ありません・・・個人情報保護法と言うのがあります・・・お客様の個人的な内容と言うのはその漏えいを堅く禁じられております」
「分かってるわよ・・・でもね、私はあの人の妻です・・・その妻が、責任取るって言ってるの・・・」
「・・・」
いつも指名してくれる沢口社長の顔が浮かんだ。
「どんなことがあるにせよ、お客様の情報は絶対洩らせない・・・」
卓は心に決めていた。
それは、お客様を裏切らないということである。
「裏切ったら、もうその時点で、タクシードライバーの資格はない」とも思う。
入社したての頃、やはり良く利用してくれた企業のオエライさんが、女性を伴って乗り込んで来たが、その時の彼等は、大人気もなく、もう自分たちの世界にのめり込んでしまい・・・
女性の肩に手を回し、コトに及ぼうとした刹那、卓は急ブレーキを掛けた。
乗客の男性は窓に、ゴツン!と頭を打ち付けた。
「こらあ~なにやってんだ!」
怒鳴られた卓は「あんたこそ!なにやってんだ!タクシーはラヴホテルじゃあないんですよ!」と叫びたかったがグッとガマンした。
ニッコリ笑ってみせると「すみません!猫が飛び出して来たんで・・・よかった~!間一髪でした!・・・お客様!申し訳ございませんでした!・・・」
乗客に恥をかかせず、且つ理解して頂く・・・卓には、この芸当が出来たのである。
乗客は、わざと咳払いをすると座りなおした。
女性に耳打ちをすると「駅の西口!ホテル ハッピータイム!」と告げた。
卓は、その頃の事を思い出していた。
沢口夫人にどうしたら、恥をかかせずヤンワリと断れるか・・・
この一筋縄ではいかない賢い女性を、どう説得するか・・・
「田中先輩!どうしよう!」
卓は心の中で、話し掛けて見る。
直ぐ答えが返ってきた。
「自分で考えろ!」
卓は、注文してあったアイスコーヒーをゴクリと飲んだ。