「奥様!申し訳ございません・・・お引き受け出来ません」
卓は丁重に頭を下げた。
「なんで?・・・謝礼もちゃんと考えているのよ?」
「・・・」
卓は瞬間、考えた。
謝礼・・・確かに魅力だ!
しかし、ひとたびこの類の恩恵に身を沈めると、己を律するという事が難しくなることは明明白白である。
要するに自分が自分でなくなるのだ。
勿論、人それぞれである。
謝礼はあくまで、謝礼として、受け取っておけば良いのかも知れない。
しかし、理由はどうであれ、職場の仲間でも、友人、知人でもない、お客様の生活にどこまで踏み込んで良いのか・・・
答えはひとつだ。
自分でも踏み込まれたくない暮らしがあり、領域がある。
それは他人とて同じこと・・・
タクシードライバーの本分は・・・探偵でも諜報部員でもない。
乗客の生命を護れる安全走行と安心を与える為の、マナーをしっかり身につけること。
先ずはそれに徹するべきなのだ。
卓はきりっとした眼で夫人を見た。
「申し訳ございません・・・」
「・・・」
「・・・」
無言が続く・・・
「わかったわ・・・なんて男気のある方かしら・・・ウチの人も幸せ者だわ」
夫人はコーヒーを一口、飲むとサッと立ちあがった。
「卓ちゃん!ごめんなさいね・・・無理を申しました」
軽く頭を下げる夫人に卓は「思ったより事が、スムーズにすんだ」事に内心驚いた。
しかし、問題はここで終わったわけではなかったのである。
「残念だけど・・・お宅の会社の・・・他の方にお願いすることにしたわ・・・候補はまだいるのよ・・・」
「出た・・」と、卓は思った。
そうは問屋が卸すまい・・・どこかで、覚悟していた言葉・・・それは「貴方がダメなら他に持って行くわ」
・・・スゴイと思う。
言い出したら引かないこの強さは、どこから来るのだろう・・・
「先輩!どうしたらイインでしょう・・・」
田中の声が頭の中で響く。
「自分で考えろ!」
卓は途方に暮れた。
「どう!・・・フフッ」
夫人が鼻で軽く笑ったような気がした。