次の日の午後の事である。
ベッドの上で、好きな野球関連の雑誌を広げていた時の事。
病室のドアが静かに開いた。
眼をやると、見覚えのある女性の顔・・・
「あっ・・・」
卓は起き上がろうとしたが、入って来た女性が止めた。
「いいの、いいの、卓ちゃん!そのままで!」
以前、卓に諜報活動を断られた沢口社長の夫人であった。
「卓ちゃんを指名させていただいたの・・・先日・・・そうしたら、無線室の方から休暇を取ってるって聞いたものだから・・・変だなって思ってたのよ・・・そうしたら、アナタ、松さんの車に乗せてもらった時、卓ちゃん、いつ戻るのって聞いたら、まだ当分、治療やリハビリに時間が掛かりますっていうじゃあない・・・もうびっくりよ!松さん、驚いて、私が知ってるって思ったんで、つい口を滑らせてしまったって言うじゃない・・・そこまで、話したんだから、どこの病院か言いなさい!って詰め寄ったら、いや、申し訳ありません・・・お教え出来ません・・・社に直接問い合わせてくださいって言われたの・・・やっぱり、社内教育、行き届いてるって感心したわ・・・そいでもって、社に直に出向いて・・・わざわざよ!・・・直接、出向いて管理者の方に訳を話して、特別ってことで、教えてもらったってわけ・・・勿論、アナタに許可を取るため、その管理者の方が、何度かメールをしたらしいの・・・返信が無いので、ナースステーションに連絡してもらったら、携帯の電源切って頂いておりますって・・・でもって、もう直接来ちゃったってわけ・・・」
機関銃のような勢いで喋る夫人が、何故か可愛く見えるのが不思議である。
「で、どうなの!?」
不安げに覗き込む夫人に、病状を簡潔に説明すると「お忙しいところ、申し訳ありません」と、付け加えた。
「お忙しいなんて!プール通いが忙しいくらいなんで大丈夫!・・・アッこれ!・・・」
夫人の手には木箱に入った、メロンがあった。
「後で、召し上がってね」
夫人はベッドの横にある台の上にそっと木箱を置くや「それより、卓ちゃん!私、今日は謝りに来たの・・・先日の事・・・」と顔を赤らめた。
「先日の事・・・?ああ~はい!」
「私、どうかしてたわ・・・あなたにあんなこと頼んで・・・ホント失礼な事だわよね・・・間違ってました・・・それに、もうお宅のタクシー乗らないなんて・・・ごめんなさい」
夫人が頭を下げた。
「いえ、奥様・・・もう気にしてはおりません・・・また、当社のタクシー宜しくお願い致します・・・」
「もちろんよ!やっぱり、お宅のタクシーでないと駄目だわ・・・温かさが違う・・・それに皆さん、運転がお上手よね・・・相変わらず、使わせてもらってます・・・あらっ!ダメね・・・喋り過ぎちゃったわ・・・多分、主人も明日辺り、来るわよ・・・じゃあね!お大事に!」
夫人は卓の足元の布団を直し、出て行った。
「フーッ」と一息ついたが、卓は心から夫人に感謝した。
「奥様のスパイにはなれません!」あの時、はっきり断ったことは間違いではなかったと思う。
卓は今さらながら、この仕事の難しさ、そして遣り甲斐を感じるのだった。