始めは「鳴かず飛ばず」の日々であったが、何より嬉しかったのは、社内の皆が優しいということだった。
夜を徹して走る仕事である。
昼間の乗客はともかく夜の乗客は、大体その殆どにアルコールが入っている。
にこやかに謝辞を伝えると「ナニ、ニヤツイテンダ!」と来るし、かと言って無表情を決め込むと「ニコリともしない!このご時世に殿様商売か!」とやられた。
しかし、卓はそのたびに思う。
「あのまま、あの会社で我慢していたら、自分だってタクシードライバーに酔っぱらって絡んでいた側かも知れない」と・・・
酔った人も辛いんだ・・・と思えるようになった頃、接客法が分かってきた。
要は、相手のテンションに合わせるという事である。
酔った勢いの乗客に「ありがとうございます・・・どちらまで?」と、妙に落ち着いた口調では言わない事にした。
あくまで相手の状態に上手く合わせる。
すると不思議な事に、降りる際、「おつりはチップだよ!」と言ってくれた。
勿論、皆が皆、そうではない。
そういった話を休憩室でするたび、殆どの同僚が、耳を傾けてくれる。
その中でも、3歳上の乗務主任、田中 賢治は真摯に悩みや愚痴を聞いてくれた。
背の高い剛健な感じのする先輩である。
ナンでも昔、ボクシングをやっていたとかで、言葉も必要以外、余りペラペラ喋る男ではなかったが、後輩思いの優しい直属の上司であった。
「頑張って走ろうぜ!」いつも話の終わりには、ニコヤカにこう答えてくれる田中主任の事を、卓は心から信頼するようになっていた。