無線室からのガイダンスが流れる。
コンピューター音なので、最初は慣れるのに手間取ったが、いまは、親しみさえ覚える。
「観善寺通り、アイトル不動産前、コングラッチマンション、沢口さま・・・」
タクシーの利用頻度は、かなり高い顧客で飲食店を都内に何店舗も持つオーナーである。
年のころは70前か・・・
いつも明るく、マナーのある気取りのない楽しい御仁である。
「沢口さま!待っててくださいね」
卓は唱えるように呟いた。
ほどなくマンション前に到着すると、沢口が待っていた。
「ヨウ!川浦君か!久しぶり!」
沢口が親しく声を掛けて来た。
「社長もお元気そうで!」
「ああ!お陰様でね!」
「どちらまで!?」
「水道橋まで、お願いするよ」
「ハイ!かしこまりました!」
卓は「ハハ~ン!いつもの女性のマンションだな・・・多分、奥さん、旅行なんだ・・・きっと」
見当はついた。
沢口に面倒を看ている女性がいることは、社内でも暗黙の了解になっていた。
これも一つの個人情報と言えばそうである。
お客様のプライバシーには踏み込まないのが、鉄則だ。
道中、沢口は機嫌よく話しかけてくる。
「イヤア~奥方が、親睦会の旅行でね」
「やはり、そうか・・・」
卓は「そうなんですか」と相槌をうつ。
「今回はどちらなんですか・・・」
「京都なんだ・・・」
「梅雨前の京都も素敵でしょうね」
「まあね・・・」
沢口の表情がほころぶ。
水道橋のマンションに着いた。
「お釣りはいらんよ」
沢口は終始、ニコヤカであった。
「ありがとうございました・・・お忘れ物ございませんよう・・・」と言いながら
後部座席に目をやると、沢口の携帯が目にとまった。
「アッ!社長!」車内から叫んだ卓の声は、沢口に届かない。
咄嗟に車外に飛び出した卓は、後を追いかけた。