「鈴木さんちのお母さん、今日、引っ越しちゃったんだあ~」
乗務員の田中さんが、悲しそうな驚きの声を上げた。
このタクシ-会社に入社して20年が経過した、接客と安全運転のエキスパ-トである。
40代半ば、坊主頭に刈り上げた、人なつっこい笑い顔のドライバ-だ。
「人はねえ、挨拶!挨拶から始まるの・・・すべてが!」
これが彼の口癖である。
「朝さあ~出庫点呼の時にさあ~仲間同士、あいさつ交わさなきゃあ!」
これは、常に彼が新任の乗務員に、伝え続けて来たことである。
「フン!何が挨拶だ!俺なんか、新参の頃、挨拶しても、先輩はこっちを向いてもくれなかったぜ!朝はさっさと出庫すりゃあいいんだよ!」
カゲ口を叩くドライバ-もいた。
その事を田中さんは知っていたが、「それでも挨拶は大切!元気に挨拶できるってこたあ、生きてる!って証(あかし)じゃねえか!・・・それに笑顔で挨拶を交わすとさあ、なんかこう・・・嬉しくならない!?・・・いい事ありそうってさ・・・」
太い眉で、どんぐり眼が、いつも笑っている人である。
この1時間前…
総務部へ異動になった福山が、今朝がた早朝点呼の準備をしていた際、事務所の電話が鳴った時の事である。
「はい!おはようございます! 」
こんな朝早く、無線室ではなく事務所に電話を掛けて来る人って誰だろう?・・・福山は半ば不思議な思いで、受話器を取った。
「もしもし!鈴木と申します・・・」
受話器の向こうで、穏やかな老婦人の声が静かに響いた。
「はい!タクシ-のご用命ですか?」
「・・・いえいえ、田中さんいらっしゃる?」
「田中と申しますと・・・乗務員の田中でございますか?」
「そう」
「申し訳ございません・・・田中の出勤日は確かに今日ですが、あと1時間ほど後に出勤致します」
瞬間、予約の乗務指名かなと思ったが、話を聞くとそうではなかった。