マンションに到着するまで、サエコは無言であった。
こうなったら話し掛けない方が、安全だと卓は思う。
マンション前で、サエコは黙ったまま、料金を渡し、不愛想な表情で車から降りた。
卓が既婚者であると答えた事が、余程プライドに障ったのであろうか。
「ありがとうございました!お忘れ物、ございませんか」
卓の掛けた言葉に「ええ」と一言、返事をしただけで、振り向きもせず、キャリーバッグを引き摺るように歩き出す。
卓はいつもの習慣で、後部座席に目をやると、携帯が眼に飛び込んで来た。
咄嗟に手を伸ばし、携帯を手にするとサエコを追いかけた。
エレベーター前で、サエコを見つけるや「お客様!携帯です!」と手渡そうとすると「あら!アリガト!」と表情も変えずに受け取った。
卓は内心、今ここで、手渡せて良かったと思いながら、携帯を渡すと、素早くその場を去った。
危うい相手とは、同じ場所、空間に長く身を、置かない事が一番であると思う。
念のため、日報も付けず、エンジンを掛けた。
数分走ったところで、ユックリ停まり、ひと息吐きながら、日報に記入していると、携帯が鳴った。