卓と鈴木は車の中で、事前に話し合っていたのである。
「鈴木様、鈴木さまが一度、川山様を突き放しては、いかがでしょうか」
「僕が・・・ですか」
「そうです・・・川山様は、決して鈴木様から別れ話など、出る筈がないと踏んでいらっしゃると思います」
「ああ・・・そういうところは、確かにありますね」
「今の状態から、抜け出し、川山様本来のゆとりと言いましょうか、やさしさを取り戻すためにも一度、大芝居を打ってみてはいかがでしょう」
「分かりました」
この会話があって、初めて綾子が、自分を見直すきっかけになったことは言うまでもない。
卓は思うのである。
男女間の関係は、決して交渉ではないと。
幾つになっても人は、己に正直に、そして素直に生きなければならない。
それが出来て、初めて他人との信頼関係が構築できるのではないか・・・
卓はその事を、今のタクシ-会社で教わったのである。
ズルく生きると、結局、自分が損をし、悪く生きると、最後は悪い人生に苦しむ。
人にキツイと、いつかは自分も同じ目に遇うのだ。
人にやさしくすれば、自分に戻って来る優しさがある。
大学卒業後、入社した企業では決して学べなかった事だ。
結果が全てであったし、『人の道』など、説いてくれる先輩も上司もいなかった。
卓は「人でありたい」と思い始める事で、悩んでいたのである。
20代の後半で転職をし、卓はつくづく、この会社で良かったと思う。
決して、その事が分った今でも、周りに説教がましくなることもない。
営業とはそう言うものだ。
顧客の要求にこたえること。
しかし、無体な要求に対しては、毅然とし、と同時に心優しくもありたいと願う。
夜の乗客のほとんどは、酔っている。
しかし、この事が、卓を勉強させてくれたことも、また事実である。
卓が思う事。
それは「人は、皆、ちょぼちょぼ・・・どっこいどっこいである」
しかし、かと言って決して「上から目線」になっている訳でもない。
『常識』があって初めて、真の『法令遵守』があるのだ。
このことも先輩の田中から、教わった。
卓は、綾子を自宅まで、送り届けた。
車中、綾子が笑いながら語ったことが、印象的である。
「彼から突き放された時は、お見合い断らなければ、良かった・・・って一瞬思いました・・・だって、その相手、結構イケメンで、暮らしぶりにも問題なかったんです・・・アチャア~!って思いました・・・でも、これがダメなのね!アハハ~!」
屈託のない女性だと思った。
特別な物差しを持っているわけでもない。
常に正直な女性なのであろう。
ひとまず、卓は胸を撫で下ろした。
降車の際、綾子は料金を支払いながら「川浦さん!ホントにありがとう!川浦さんに、いて頂いて良かった・・・すみませんでした!」
綾子はこの時、初めて卓に、深々とお辞儀をした。