「お宅のタクシー、一日に数回、家族や会社でも使わせて頂いているの・・・ご存じでしょう・・・他のドライバーの方々にもよく来て頂いているのよ・・・」
かいつまんで言うと、「タクシーは御社の車と決めている・・・今まで、どれほど使って来たと思っているの・・・タクシー会社は、お宅だけではない・・・わかってんの・・・」という事なのだろう。
しかし、違法と分かっていて手を貸すわけにはいかない。
まして、違法を働いた謝礼として、いくらかを貰い続けるなど、卓には出来ない相談であること位、とっくに分かっている事だ。
しかし、相手はこのまま引き下がりそうにもなかった。
「奥様・・・当社の別のドライバー達も同じことを申し上げる筈です・・・誠に恐れ入りますが、今回の事、社の上司に報告させて頂きます・・・その上で、奥様から当社との関係を切られたとしても、致し方ないことと存じます
・・・当社では、この類の教育は強化されて来ましたし、万が一法的な責任が発生しないとなりましても、倫理上、道義上の問題は、残ります・・・それに、今、奥様は、私に情報漏えいを強要しておられます・・・お気にさわりましたら、ご容赦ください・・・事はそんなに簡単な事ではありません・・・それにこれは、奥様とご主人様の問題であります・・・私共が介入すべきではないと存じます」
夫人は、流ちょうに、そして凛として話す卓の言葉に聞き耳を立てていたが、「フ~」と溜息を付いた。
「タクシードライバーだと思って軽んじていたわ・・・言うわね・・・確かにその通り・・・でも、それに固執なさるのなら、金輪際、お宅のタクシーは呼ばないから、そのつもりで・・・」
賢い女性との認識もあったが、こう言うしか引っ込みようが、なかったのであろう。
「承知致しました・・・長い間、ありがとうございました」
卓は、最後まで冷静に、そして感謝の気持ちを込めて、深々とお辞儀をした。
「仕方ないな・・・早速、社に連絡だ」
誰も怒らないこと位は、分かっている。
しかし、常連を逃してしまった事には違いない・・・
「もっと、他の手があったかもしれない・・・」と思いつつ、卓はこれで良かったとのだと自分を慰めた。
「タクシードライバーだと思って軽く考えていた・・・」
卓には、この言葉がくやしかった。
昔は神風だ、雲助だと言われた時代があった。
それはそれで、時代の背景が、そう呼ばせた一面もいなめない・・・
しかし、それぞれのタクシー会社とドライバー自身が自ら、その価値観を向上させても来た。
軽んじられてたまるか・・・ホテルマン並みの接客が出来て、現代のタクシードライバーだとも思う。
このテの客は、ひとつ譲歩すると必ず、更に複雑な問題を持ち込む・・・
卓にはそれが嫌と言うほど分かっていたのである。
卓は休日返上で、社に駆け込み運行の上司に、ことの成り行きを報告した。
「分かった・・・残念だが仕方ない・・・間違った選択ではなかったと思うよ」
上司の言葉に卓はホッと胸を撫で下ろす。
今と昔は、大きく違っている。
この点をはき違えると、職場や同僚に迷惑を掛ける事になるのだ・・・
「あれ、卓ちゃん!なんで出社したの・・・」
休憩室にいた60代の先輩乗務員に声を掛けられた。
事の成り行きを説明すると・・・
「フザケテンナ~!俺たちをなんだと思ってんだ・・・ドライバーだと思って甘く見てただと・・・トンデモナイ、バーサンだ・・・良く言ったよ!卓ちゃん!」
集まって来たドライバーも口々に声を揃えた。
「俺たちは弱い立場さあ・・・何言われても、ガマンしなきゃあって、こらえて来たよ・・・悔し涙、こぼしそうになっても、呑み込んで、ハンドル切ってきたのさね・・・」
「そうだよ!川浦!間違ってなんかいねえよ!」
しかし、中には「バカだね・・・ハイハイって言って、適当に報告してやりながら、小遣い稼ぎすればイイもんをよ~バカ正直っての・・・あんたみたいな人の事・・・」とせせら笑う先輩もいた。
「いや、それは違う!・・・事はそんな単純な事ではないってことなんだよ」
背後で力強い声がした。
振り向くと田中が立っていた。
「違法は違法・・・それに、そんなことは興信所に持って行きゃあイイ・・・俺たちは人を運ぶ商売!情報や人の秘密に首を突っ込んでいる暇があったら・・・一キロでも余計に走って営業を増やすことの方が身の為さ・・・」
田中の言葉に、殆どの乗務員が頷いた。
駐車場へと歩きながら田中は、卓の肩をたたいた。
「よく言った!・・・この仕事は、プライド捨てなきゃあ出来ない事が多い・・・お客様との衝突は極力、避けるべきだが、悔しい思いしてこらえてる連中も多いんだ・・・けど、グッとガマンしてみんな、笑顔で走ってるんだ・・・生きて行かなきゃあ、いけないんでね・・・」
「そうですね・・・どんな仕事もこらえる事が大切ですが、この仕事は特別ですね・・・」
「ああ・・・でも、待っていて下さるお客様、呼んでくださるお客様もいらっしゃる・・・無体な乗客もいるが、俺たちドライバーを見て、ありがとうと手を合わせてくださる方も、いらっしゃる・・・いろいろだなあ・・・」
「ええ・・・」
卓は今さらながら、タクシードライバーと言う仕事の深さを、感じるのであった。