「しっかりしてよ!お父さん!」
翔太の母親の目に涙が溢れた。
「美佐子~!何処へ行ってたんだ・・・探したよ・・・」
老人は潤んだ目で、妻だと思い込んでいる娘の手を握った。
「お父さん!」
うな垂れたままの翔太の母親を、立たせると卓が老人の前に座った。
「奥様と一緒にお迎えに参りましたタクシードライバーの、川浦と申します」
「タクシードライバー?」
「はい」
「御自宅に戻りましょう」
「自宅はここだよ・・・」
老人はマンションを指差した。
「お父さん!いい加減にして!ここにはもう家はないの!とっくに引っ越したでしょう!それに私はお母さんじゃあないの!あなたの娘の佐知子です!」
険しい表情で、翔太の母親が叫んだ。
「翔太くんのお母さん!だめです・・・今は混乱するだけですから・・・否定しない事です・・・冷静になりましょう・・・」
卓の声に翔太の母親は、興奮した面持ちでバッグからハンカチを取り出し顔を覆った。
「さあ・・・森山さま・・・とにかく車の中で、ひと息いれましょう・・・」
卓に促され、老人は、やっとの思いで立ち上がった。
「運転手さん・・・ここはどこですか・・・」
老人の、か細い声に卓が答えた。
「ここは国分寺です」
「国分寺?・・・」
「はい・・・森山さま」
卓は老人の調子に合わせ、穏やかに応えた。
以前にも数回、認知症の老人を乗せた事があった。
強く否定したり、諭そうとすると逆効果であることを知っている。
「私は何故、ここにいる・・・?」
老人は、もう忘れているようであった。
自販機でお茶を買って来た翔太が、老人に渡した。
「ありがとう・・・ボクはイイ子だね・・・」
老人の言葉に「川浦のおじちゃん!・・・おじいちゃん、僕の事も忘れてるの?」
「そうみたいだね・・・でも絶対、怒っちゃあだめだよ・・・」
翔太は母親を気遣った。
「お母さん・・・おじいちゃん・・・また、ちゃんと思い出してくれるよ」
その時である。
翔太の母親の顔をまじまじと見つめていた老人が、叫ぶような声を出した。
「佐知子!・・・私は・・・私はどうなってしまったんだ・・・みんな、どうしたんだ・・・ああ!最近、物忘れはするし・・・頭がどうにかなっちまったのかな・・・」
「お父さん・・・記憶が戻ったの・・・私が分かるのね・・・」
「ああ・・・何故ここに来たんだ・・・思い出せない」
「お父さん!イイの・・・イイの・・・帰りましょうね」
良く見ると、老人の服は泥で汚れたままである。
持ってきた服に着替えさせ、ウエットティッシュで顔と手を拭いた。
老人は徐々に落ち着きを取り戻し、走る車の中で、寝息をたて始めた。
「翔太君のお母さん・・・お母さんのお気持ちはよく分かります・・・いつまでこんな事が続くのだろうという不安や悲しさ・・・ですが、ある程度の処で、専門家の集団にお任せする・・・その決断も大事な事だと思います・・・今は、いろんな施設がありますから・・・僕にも、お手伝いできることがあると思いますので・・・」
「ありがとうございます・・・おっしゃって頂くだけでも力が湧いてきます」
翔太の母親が頭をさげた。